Monochrome-Monologue

2003年10月
 2003年10月1日(水)  PC不調 しばらくお待ちください
みなさんへ
こんにちは。
せっかくアクセスしていただきましたが、しばらくPC不調のため、更新できておりません。もうすこしお待ちください。

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上のおわびを掲載するのを一週間もおこたり、申し訳ありませんでした。わたくしのPC、知らないあいだに不調の原因がたまっていたようです。いつもお世話になっている小布施町内の船田悦雄さん(ふなだデンキ)にお預けして数日間、”入院”させてもらい、集中治療を施していただいました。おかげさまで、また写真帖を書けるようになりました。

10月1日は、かんてんぱぱの塚越寛社長の原稿の執筆と編集をしてすごしました。
 2003年10月2日(木)  伊那のかんてんぱぱへ 基本の5S
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朝5時、車で家を出発。中央高速道を南下して136.5キロ、伊那市西春近の伊那食品工業「かんてんぱぱガーデン」に、7時10分到着。昨年春から取材をしてきた塚越寛社長の経営理念書の原稿が大詰めです。

7時45分、ユニフォームを着た社員が、竹ぼうきを持って外へ。これから約30分間、2万坪の緑地に落ちた枯葉や雑草を集めます。みんなときには楽しげに私語をしながらも、ほとんど無言でもくもくと拾い、はく作業を始めました。子供が入りそうな大きなビニール袋が、いくつも、みるみるうちにいっぱいになります。
そして朝礼、ラジオ体操、8時30分始業。

基本の5Sといいます。整理・整頓・清掃・清潔・しつけ。「知恵とは、体験という触媒を通して体得されるもの」と語る塚越社長。「自分たちの時間の大半をすごす職場の環境は、自分たちで美しく」と毎朝の清掃を進んでつづける社員のみなさんは、基本の5Sという体験を通して、目に見えないけれどたいへんな知恵を得られているのではないかとおもいました。それが研究開発や製造技術、営業や総務の姿勢に反映されているのでしょう。

塚越社長と対面の原稿の読み合わせ。
昼食のあと、県立高校の校長のみなさん10名ほどが、塚越社長の話を聴きに訪れました。
「みなさんの学校の生徒は、掃除をしていますか?掃除をさせてください。学力なんていくらあっても、身のまわりの掃除ひとつできないようでは、うちは採用しません」と塚越社長はきっぱりと語っておられました。

原稿はこれから編集にかかり、年内の完成をめざします。

夕方、高速道路のPAにて仮眠。夜7時、帰宅しました。

【きょうの写真】朝の清掃を終えて、本社前で朝礼をするみなさん。このとき、塚越社長は隣接する工場の朝礼に参加されていました。
 2003年10月3日(金)  市村次夫さんの講演会に45名
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午前中は仕事場にて編集に集中。
午後3時より小布施堂本店2階にて、『小布施の俳人・喜多牧夫 人と作品』の第一回刊行委員会。市村次夫さんに委員長をお引きうけいただき、顧問には唐沢彦三町長と市川健夫先生(県歴史館館長)、山崎巌文化協会長、岩松院の渡辺照慈東堂に就いていただくことになりました。

小布施の風土と暮らしを俳句に詠みつづけた”偉人”の総集編。今年のうちの発行へと進められそうです。その刊行委員であり編集者としてかかわることのできる幸せを感じております。

夕方7時より、町公民館にて市村次夫さんの講演会が開かれ、45名ほどが集まりました。終了後は小布施駅舎の六斎舎にて2次会。
市村さんの、ものごとの見方考え方、えぐりかえされるような感じを受けたのは、わたくしだけではないでしょう。いずれは市村さんのお話を「文屋文庫」に、と目標がまたひとつ、できました。2次会を終えたのは深夜零時前でした。六斎舎の池田さん、おそくまでありがとう!

また参加者からは「市村さんを囲んで、自由に気軽に語り合える場を」との声が多く聞かれました。不定期でいいので、市村さんにお願いしてみようとおもいます。

【きょうの写真】(上)市村次夫さん(右)に質問する芋川五作さん
(下)六斎舎にて、市村さん(中央奥)を囲んで
 2003年10月4日(土)  成沢未来君の出版記念会
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昨夜、市村さんとの2次会で生ビールを2杯いただいたので、町役場に車をおいて、千鳥足で自宅まで帰りました。翌朝8時過ぎ、パートに出かける妻朝子の車に乗せてもらって町役場駐車場へ。そこに、成沢道夫さんがおられました。
きょうは、役場となりの北斎ホールにて、息子さんの未来君の出版記念会。成沢さんはわたくしを呼びとめてくださり、未来君のエッセイ集『一等賞の旗』(里文出版)を手渡しながら、「よかったら、昼前からの祝賀会に参加しないか」と誘っていただきました。
人やものごととの自然な出会いのまま、川の流れに流されるように生きたいとおもっている最近です。もともとの無遠慮な性格もあって、その場で「それじゃ。お言葉に甘えて〜」と約束しました。

未来君は、生まれながらの下肢麻痺の重い障害と闘いながら、短歌や俳句、エッセイを書きつづけ、「天才歌人」ともよばれはじめています。うちの長男真風と同じ須坂東高校の2年生。沖縄生まれのお母さん譲りの大きな力のあるまなこが印象的な、活発な青年です。本には、詩人の谷川俊太郎さんが「序詩」を寄せられました。

「天国に通じるという蜘蛛の糸 そしてすばやくのぼる足欲し」
「とく熟れてやさしき者のてのひらに 水蜜桃の汗はこぼるる」
いずれもことし、17歳のときの作品です。

子をおもい、親をおもい、支えてくれる人や自然をおもう、人の姿のうつくしさを感じた3時間でした。林文映さん(浄光寺)の司会は、深みとかろみが織りなす味わいぶかいもの。「いぶし銀のような」という形容を、ひさしぶりにおもいだしました。
沖縄のオリオンビール、未来君の写真をラベルに貼った辛口の地酒「米川」をたらふくいただきました。「きょうはぜったい、仕事しねーぞー」と、夕方まで昼寝をしました。ありがろうございます、成沢ご一家!
 2003年10月5日(日)  煙突掃除屋さん♪になりました
朝から喜多牧夫さんの本と塚越寛社長の本の編集で仕事場に。午後、のこのこと着替えて、ストーブの煙突掃除をしました。りんご畑で使うステンレス製の軽いはしごで屋根に上がり、瓦屋根を用心深く登って煙突へ。次男の荒野もいっしょです。屋根の上から見渡すと、志賀高原から北信五岳、菅平まで360度の眺望。いい気分でした。
長さ5メートルくらいの煙突掃除用の金ブラシを、煙突のなかへするするとおろし、あとは上下運動と回転運動をさせながら、ススを下へ落とします。
それがすむとこんどは室内のストーブへ。ストーブと煙突のつなぎめをはずすと、煙突の内面から落ちたススがどっさり。妻朝子に煙突を支えていてもらい(けっこう重い!)、これを掃除機で吸いとりました。
ストーブの右となりには、マキをためておく大きな長方形の木箱を、ものおきから持ってきて準備完了。あとは、マキを箱へ詰めて、火をつけるばかりです。初点火のまえには、春までの火の用心を、火の神様に祈願します。
昨年、弟の靖さんが母親に買ってくれた鉄瓶があります。それで水を沸かすと、とってもやわらなかお湯になります。いまから楽しみです。

マキは、知り合いの果樹農家のみなさんにいただいたりんごや栗の幹や枝から作ってあります。この冬は、おかげであったかく過ごせそうです。「生(なま)の火」、いいですよ♪
いずれ、「ストーブの文化誌」を本にしてみたいな、とおもっています。みなさん、この本について、アイデアがあったらお伝えください。
 2003年10月6日(月)  北斎館駐車場は緑の広場に
「小布施もバスを入れるんですね。バスの団体客が頼りなんですか?」

「国道から北斎館へ通じるあのせまい道にバスを通すなんて、町並み修景をしたって台無し、って感じ。」

「小布施は、バスを降りて歩くのがいやなお客さんには来てもらわなくてもいい、というくらいの姿勢でいいのでは?栗の小径の北の通り(大日通り)にせKっかうバスの停車場ができたのだから、あれを有効に使えばいい。」

「北斎館駐車場の南にできたあのお土産屋さんはなんですか?!3階に展望台まである。あれでは町並み修景の努力が水の泡。一階に並んでいるみやげ物も店の雰囲気も、まったく小布施になじまない。どうしてあんな建物や店を迎えたの?台無しだね。」

これはすべて、さいきんひと月くらいのあいだに耳にした、きびしい(でもあったかい)お言葉です。

みなさん、当面なすべきことはなんでしょうか?

1)国道−北斎館の細い町道はバスの通行を禁止する。

2)大日通りの停車場の活用をバス・旅行会社に呼びかける。

3)北斎館駐車場の北半分をまず、広場にする。南半分の駐車スペース(国道側から出入りさせる)からのアプローチの道をデザインし、大き目の広葉樹を数本、植える。木陰のある広場にする。
 この土地は北斎館の管理(地主さんからの賃借)だそうなので、理事長・理事会の決断でできるのだそうです。

みなさん、いかがでしょうか?
 2003年10月7日(火)  お米ができました
お米が収穫になりました。わが家の延徳田んぼの水田は一反五畝(15アール)。農協のライスセンターに刈りとりから乾燥までお願いしてあるので、農協から電話を受けてライスセンターに行けば、軽トラにユニックで積んでくれるのです。
ことしの作柄は、全国どこでも「やや不良」から「不良」。わが家は?と心配していましたら、41袋の収穫でした。いままでにいちばん好調だった昨年の47袋にはおよびませんが、例年43袋くらいですから、まずまずでしょう。
高校2年を筆頭に食べ盛りの子供たちがいます。来年は次男の荒野も高校へ行くのでお弁当持参。今年はいつもより2袋ほど、よけいに取っておきましょう。のこりは例年通り、2人の弟宅や親類に買いとっていただきます。これもまた有り難いおつきあいです。

夕暮れ時、収穫のすんだ田んぼへ。コンバインで束ねられたワラが、ほどよく乾燥しています。こんどの週末は、みんなでワラ揚げに。ワラは二つの畑に運びます。ひと冬を越して来年の春から夏に、りんごや栗やナシの木の根元に敷きます。乾燥防止や雑草が生えるのを抑える効果があります。その秋には、土にかえるので有機肥料になります。

ワラ揚げがすめば、冬への準備はほぼ完了です。
 2003年10月8日(水)  遠藤守信先生、文屋文庫に!
9日の朝日新聞によると、信州大学工学部のナノテクの権威・遠藤守信先生は、昨年につづいてノーベル化学賞の候補になりましたが、残念ながら受賞は見送られたのだそうです。「来年まで楽しみが伸びてよかったじゃない」という79歳になられるお母様のコメントが、救いでした。
遠藤先生は、須坂高校の先輩です。18日午後、須坂市のメセナホールにて、須坂高校創立八十周年記念講演で「クリエイティブ・スピリッツ」(創造的精神)と題して、後輩や郷土の人たちに向けて語られます。

遠藤先生と須坂高校同窓会の龍胆会(桜井佐七会長)のご了解をいただいて、この講演録を「文屋文庫」の第四巻もしくは第五巻として発刊することになりました。みなさん、お楽しみに。

8日朝、龍胆会の滝澤一男先生をお尋ねして、18日に配布していただく文屋文庫の遠藤先生講演録のチラシ原稿を手渡しました。

小布施に戻り、華道の小原流・峰村洋子さん宅へ。6日まで桜井甘精堂の小さな栗の木美術館で開かれていた待井亮造さんの小布施の水彩画展に飾っていただいた野の花の御礼に。峰村さんは「6日間の会期中にお花がしおれたら美しくなくなるから」と毎朝会場に足を運び、水の入れ替えをしてくださいました。それも、わたくしがお願いした花器以外の、ほかの人たちが待井さんに贈った二つの花飾りの手入れまでしてくださったのだそうです。おもいやりのこころ、を教えていただきました。

午前10時、飛騨古川町の「花で町並みを飾る会」のご一行45名様がバス一台でご来訪。今年2月、古川町に講演に呼んでいただいて以来、懇意にしていただいている谷口篤子さん、春見和美さんがリーダーのおばさま仲間です。フローラルガーデンからオープンガーデンの跡部由美子さんのお庭へ。お昼はグリーン栗里さんの山菜栗おこわ弁当(おいしかったー)、そしてわが家へ。母親が、手作りの栗のお菓子と緑茶を45名様分、用意して待っていてくれました(サンキュ、おかあちゃん!)。
竹本美三子さんのお庭を見てから北斎館へ。お買い物のあと、バスで小布施町をあとにして、須坂市高畑のそりまちさんのぶどう園へ。ここでお別れしました。みなさん、おつかれさま!これからもおつきあいください。

午後3時、小布施駅舎の六斎舎へ。
本のプロジェクト「森の聞き書き甲子園」の澁澤寿一さん、吉野奈保子さん、久田浩司さんがわざわざ東京からお越しくださり、合流。北斎館の肉筆画にいたく感動されていました。北斎館二階の喫茶室「五岳」にて一時間ほど、この本の主旨や運びについて語りあいました。
夕方、NPO法人「しなのぐらし」の小渕登美子さん・美宏さん親子の住まいへ。3人はこちらに宿らせていただくことに。7時より、美宏さんの手料理フルコースをいただきながら、ワインで乾杯。
満月まであと二日の明るい月夜。4人で月明かりとその影をめでながら一時間、夜の小布施を散策しました。わたくしはこれで帰りましたが、3人は深夜まで、登美子さんとワインで語りあったそうです。幸せ。
 2003年10月9日(木)  本のメンバー勢ぞろい〜!
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本のプロジェクト「森の聞き書き甲子園」のメンバーが小布施に勢ぞろいしました。
昨日書きました東京からの3名様とカメラマンの関真澄さん、デザインの中村仁さんが、11時に六斎舎に合流。名刺交換をして世間話をして、本の主旨を語りあいました。澁澤さんと吉野さんはひと足早く車で東京へ。残った4名で、浄光寺となりのお蕎麦屋さん・笑鬼さんへ。
オーナーの宮沢さんご夫妻がこころをこめた、手打ちそばをいただきながら、本の編集についてあーだこーだどーだそーだと語りあいました。

本の取材は10月後半から始まり、執筆の山場は11月後半以降になります。出版は年度内、できれば2月のうちに。会いたいとおもったらそのHとの住む土地へ出かけよう、そして一対一で、サシで語りあおう、それを喜びあおう、そんな暮らしの文化を育てよう、日本に。そんな主旨のメッセージブックになりそうです。

伊那のかんてんぱぱ塚越社長の本と並行しての動き。楽しくて、気の抜けない、日々になりそうでやんす♪

「妻が好きだから」と山屋天平堂さんのアンズグラッセと小布施堂さんの栗菓子を買い求めた久田さん。わたくしも見習います。

夜、夕食の献立は、子供たちの大好物にして、わたくしも好きな、妻朝子の手作りハンバーグ。ごちそうさま。

【きょうの写真】本のメンバー。左から中村さん、関さん、木下、吉野さん、澁澤さん、久田さん(六斎舎にて)
 2003年10月10日(土)  「おだむ」ということば
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みなさん、「おだむ」ということばをご存知ですか?わたくしは先週まで知りませんでした。
小布施町伊勢町の原勝巳さんが教えてくれました。60歳の原さんは、小布施の方言の宝庫といわれるほどの、ひょうきんな方言おじさんです。NHKの長野放送局にも行って全県に放映されたこともあります。

その原さんによると、「おだむ」は水の様子に使うのだそうです。たとえば、バケツの水をかきまぜてしばらくすると、渦が消えて静かになります。「おー、水、おだんだなー」。洪水の千曲川がおさまったときにも使うし、喧嘩していた人が仲直りしたときも、「おだんだね」と。

おだやかないい響きなので、辞書を引いてみました。
「おだむ」はありません。やはり方言なのでしょうか。
でも「おだやむ」はありました。漢字は「小弛む」と書きます。「おだゆむ」とも読むのだそうです。その意味は「少しゆるやかになる。雨が小降りになる」(広辞苑)。

「おだやむ」「おだゆむ」「おだむ」、いずれも和ことばです。やわらかないい響きですね。こんな日々を送っていきたいものです。

10日午前から午後、「小布施の俳人・喜多牧夫 人と作品」の編集に専念していました。夕方、自転車にて小布施駅へ、電車にて長野へ。長野市の出版社・川辺書林社長の久保田稔さん、文筆業の中島敏子さんと、打合せをかねて、小料理屋でいっぱい。12時すこし前に帰宅しました。

【きょうの写真】上)おだやむ、おだゆむの広辞苑の解説
下)いよいよストーブの季節です。春から一家みんなで作ったマキが、母屋南の物置の軒下に山と積んであります。すべてりんごの木。近所の農家のみなさんから譲っていただき、チェーンソーやマキ割り機で、マキにしたものです。大好きな冬が、そこまで来ています♪
 2003年10月11日(土)  ワラあげをしました
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朝からいいお天気でした。
喜多牧夫さんの本の編集を朝からつづけてお昼まで。午後1時から、田んぼのワラあげをしました。次男の荒野と長女の星河といっしょに軽トラックに乗って、延徳田んぼのわが家の水田へ。15アール、一反五畝の、祖父と父からいただいた土地です。

このところの好天続きにより、ワラはよく乾燥していました。畳のヘリに使う帯状のヒモでワラ6束をひとつにしばってまとめます。それを軽トラに山積みにして、畑に運びます。単純な重労働ですが、終わりの決まっている仕事ですから、やればやるほど成果が目に見える、やりがいのある仕事です。子供たちも熱心に取りくんでくれました。

夕方までに全体の7割を仕上げることができました。
2つの畑に運んだワラは、それぞれ一か所に積んで、ひと冬を越します。来年の春、果樹の根元に広げます。

夕方、すごい夕焼けが西南の空に広がりました。
茜色、それも深くて、強くて、迫力のある色。西南から西、北へとのびるいく筋もの雲の帯が、その色に力強さをもたらしていました。こんな夕焼け、あまり記憶にありません。「神々しい」、おもわず浮かんだことばです。

【きょうの写真】ワラあげひと段落。野良はやっぱり気持ちいいです。

【透玄きょうの一句】亡き人の棲家の色か茜雲

お風呂に入って冷えたからだを温め、晩酌がおいしかったのは・・・いうまでもございません♪
 2003年10月12日(日)  文屋文庫第三巻、編集中です
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今日は終日、文屋文庫の第三巻「輝く人、支えるこころ 堀田力講演録」の編集をしました。さわやか福祉財団理事長で弁護士の堀田先生が、昨年10月に小布施町で講演された記録です。鍵ことばは「自立」。人、町、国。どの世界でも「自立」が基盤ですよね。そのことを、おもに福祉・医療の視点から語っていただきました。
巻末には、11年前の拙著「小布施物語」から「桜を植えた異人さん」という、新生病院の誕生物語を採録しています。

これから堀田先生をはじめ関係する方々に校正をしていただきます。発刊は11月の予定です。
文屋文庫は、購読会員(年会費無料、一冊500円と送料230円)を募っております。みなさん、ご期待ください。

【きょうの写真】りんごの収穫が最盛期を迎えます。これは中生種の千秋(だとおもいます)。さわやかな赤、実はシャキッとして、涼しげな甘さ、すっぱさはありません。うちのりんごは、フジのみ。いま、ピンク色からしだいに赤みを増しているところです。

【透玄きょうの一句】「父の忌や木犀の香に抱かれり」
「木犀や浄土のかほりかくならむ」
 2003年10月13日(月)  はじめてのそば打ち体験
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今日は町民運動会の日。
朝から雨模様でしたが、中止の連絡がないまま、まずは会場の栗ガ丘小学校グラウンドへ。
開会式の最中に小雨が降りだしましたが決行。学童リレーとたる転がしを終えたところで雨が強くなり、中止となりました。
運動会が中止になっても慰労会はしっかりやるのが、わがむら飯田のならわしです。昼には公会堂に役員や選手、あわせて30名ほどが集まり、宴会となりました。

となりに座った小林茂さんと話すうちに、「よし、このあとうちに来て、そば打ちをしよう」と誘われ、おことばに甘えました。
ご自宅で葉子夫人とお茶をいただいてから、合流した本間卓夫さんと、母屋の外の屋根のある場所へ。
小林さんは、八ヶ岳山ろく産のそば粉を用意されていて、そば打ちが始まりました。そば粉8割につなぎの小麦粉2割を合わせる”ニハチ”そば。3名がめいめい、そば粉500グラムと小麦粉125グラムで、自分のそばを打ちました。
「そば打ちは男しょ(男性)の仕事」と言われます。よい加減にそば粉をこねるにはかなりの力と時間がかかるので、それを実感しました。ただ「腕や手の力を入れなくても、体重の移動で力を加えるコツをつかめば大丈夫」と小林さん。たしかに戸隠などへ行けば、還暦をとうに過ぎたおばあさんが、そばを打ってますから、力を入れるコツが大事なのでしょうね。
ノシ棒を使って薄く平らに延ばしてから折りたたみ、そば切り包丁で切りました。山梨のホウトウみたいに幅の広いのや、幅が途中から糸みたいに細くなったものなど、「精神の集中力」が問われる作業でした。

できあがったそばは、自宅で家族みんなでいただきました。奥が深いそば打ち。はまってしまいそうです。そろそろ新そばの季節。この初体験のおかげで、そばをいただくときの気分が少々変わりそうです。
小林ご夫妻、本間さん、ありがとうございました。

夕方、六斎舎にて天谷恭一郎さんと面談。政策学校一新塾のお仲間です。まちづくりや仕事の面で、これからお世話になります。

【きょうの写真】町民運動会の開会式に集まった各集落の団旗。このあと、雨が降りだしてしまいました。「昔のとおり10月10日を体育の日にしておけば(晴れの特異日で)快晴になったのに」という声も聞かれました。


 2003年10月14日(火)  俳人喜多牧夫さんのことば
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朝は高山村役場とアラ小布施と稲田美恵子さん宅にて、打ち合わせ。昼前から、文屋文庫第三巻の編集と「小布施の俳人喜多牧夫 人と作品」の編集をしていました。いずれも11月の発行です。

俳人喜多牧夫さんはわたくしにとって、忘れられない人物です。
平成3年にはじめて出版した本『夢に酔ひ風と舞ふ』(あすか書房)の主人公であり、俳句の魅力を教えていただいた先生だからです。

牧夫さんが愛弟子の稲田さんに語ったことばのいくつかを、ここにご紹介します。

「写生に徹すれば抒情が生まれる。ことがら俳句ではなく、もの俳句、客観写生を旨とせよ。」

「俳句は、いっぱい作って、(先生や仲間に)たくさん見てもらって、どんどん捨てて、いくたびも推こうすること。おのずと俳句の力は磨かれていき、高みに達することができる。」

「はじめの三年間は狂人になったつもりで俳句に打ちこめ。基礎と知識を身につけなさい。無我夢中で、横道にそれるな。」

「神を信じるように、俳句を信じなさい。」

そんな牧夫さんのことを12年前、32歳のわたくしは、『夢に酔ひ…』の序文で、つぎのように書きました。お読みいただければ、うれしいです。

★この原稿をふくむ『夢に酔ひ…』のほとんどの原稿も、こんかいの『…人と作品』に盛りこまれます。あわせて280ページほどになります。★

(タイトル)
ここで生きている

(本文)
信州に生まれた。
十七歳のとき、名古屋で俳句を覚えた。
結核になって、志なかばで帰郷した。絶望して死のうと思った。飲んだ毒薬のショックで結核が治った。
 東京大空襲で妻と子供と焼け出された。
 かつぎ屋になって米を東京へ運ぶ途中、長野駅で警察に見つかった。拳銃を突きつけられた。米を没収されるのがシャクだから、わざと地面にこぼして、スズメにくれた。
 小布施で豆腐屋を始めた。冬。豆腐の水は冷たかった。自転車に豆腐をいっぱい積んで、豆腐笛を吹くと、なじみの犬がこたえ、子供たちが硬貨をナベに入れて、買いにきた。硬い豆腐が好評だった。一〇年、続けた。
五男二女を授かった。娘がある夕方、試験勉強が忙しいからと、家の手伝いをさぼった。すぐに机の上に教科書を全部、豆腐の竈(かまど)へほうり込んで焼いてやった。(翌日、娘がいないうちに、一日かけて先輩の家を歩いて、そろえておいたけれど。)
妻が五十代の若さで、先立っていった。
外国や全国を旅して歩いた。
心臓病で倒れて、すべての公職を辞した。俳句を多くの若い人たちに教えた。刑務所の受刑者にも−。孫は二〇人くらい、ひ孫もいる。長男夫婦と暮らしている。孫娘が、宝石みたいにかわいい。
「お役所からいっぱい表彰状もらったけれど、やっけ(厄介)だから、みんなべちゃっちゃった(捨ててしまった)」。
 喜多牧夫さんは、こんな人です。喜多さんの代表作一二〇句に、平易な解説と写真を添えました。
 俳句は、自分の心を一七音のリズムにたくして詠いあげる詩です。あふれるほどの気持ちを、短い詩に凝縮します。だれにでもできる俳句の創作―。俳句をまったく知らない人にも、楽しんでいただけるように心がけて編集しました。 
ニューヨーク育ちの俳人ジャック・スタムさんと、信州の風土俳人喜多さんの放談とともに、俳句の面白さを味わってください。
 この本の出版にあたっては、あすか書房の堤愼一社長、上野穂高さん、田中博文さんに温かいご理解とご指導をいただきました。また、小布施町と財団法人北斎館、中込恒人さんには、写真を提供していただきました。お礼を申し上げます。

一九九一年五月 編者 木下 豊

【きょうの写真】『夢に酔ひ…』の表紙。

【透玄きょうの一句】「秋雨や終戦の記事なき紙面」




 2003年10月15日(水)  ヘプバーンさん ちょっとだけのおすそ分けを
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朝、喜多牧夫さんのご子息・北村登夫さん宅を訪ねて、牧夫さんの遺品である豆腐笛などを借用。これを写真にして本に掲載します。アラ小布施、稲田美恵子さんと打ちあわせのあと、長野市の赤十字血液センターへ。

昨日、血液提供のご連絡をいただき、予約していきました。わたくしのはO型。いつものことですが、道に面した入口には「A・AB型が不足しています」の立て看板。「O型が不足」と書いてあったことはありません。なんとなく複雑な気分。
血小板の成分献血をしました。前々回、昨年の新年に行ったときは、肝臓の数値がおもわしくなくて、せっかくの血を輸血に使えなかった(廃棄)とのこと。前回はOKだったのですが、念のため少量を採血して検査していただきました。結果はOK!前々回はたぶん、年末年始のお酒がたたったのでしょう。気をつけなくては。

成分献血は、検査を含めればおおむね90分くらいかかります。その間、雑誌を見たり、安楽椅子に備えつけのパーソナルテレビを見たり、眠ったり。けっこうなピンク色の写真が載っている写真週刊誌がたくさん置いてあるのは、血の気を増して血圧を高めさせて採決しやすくするためかいな…とよからぬ想像をしながらボーッとして時を過ごしました。

午後2時より、松代ロイヤルホテルにて、「03ライオンズ女性の集い」「わたしたちにもできる国際貢献〜官と民の協力で」をテーマに、外務省の特命全権大使・五月女光弘氏が講演されました。

その一部。
「ユニセフのはなし。ユニセフは、戦後の日本を助けてくれた国連の機関第一号。日本の親善大使は黒柳鉄子さん。亡くなった映画女優のオードリヘプバーンさんは、59歳で女優を辞めて親善大使に。ユニセフの正式の職員として給料をもらわなくてはいけない。ヘプバーンさんは、年俸一ドルで契約。120円だから月給は10円だった。大使として世界中の貧しい国の子供たちのもとへ行くために、ご自分の財産を年間100万ドル、1億2千万円も使いつづけた。」

「彼女はベルギー貴族の娘。13歳でレジスタンス運動に加わり、ナチスドイツとの闘いに参加。橋の下に隠れていたこともあった。そんなときでも、だれかが食事をさしだして助けてくれた。生き延びて無事に終戦。バレエ学校に入学する。才能を見出されて、ハリウッド映画のスターの道へ。53年、『ローマの休日』により世界的な女優に。『ティファニーで朝食を』、『マイフェアレディ』…世界中から愛された。」

「59歳で大使になり、世界各地、ベトナム、カンボジア、エチオピア、ソマリアへ。63歳とのき、ソマリアの山中に倒れる。体調がもうあぶないから引き上げをと言われてもはねのけて、最後まで子どもたちのために尽くした。最後はロスの病院で手術もできず、手遅れで亡くなった。ガンであった。スイスのレマン湖畔の小さな村に葬られている。」

「なぜつらい仕事にと晩年に、友人に聞かれ、答えた。すてきで豊かな裕福、なに不自由ない人生を送れた。私は子どものころつらいおもいたくさんしたが、いろんな人が、だれかが助けてくれた。おかげさまで生き延びて、豊かな人生を送り、十分に幸せ。最後に、今までしなかった、できなかったことをしたかった。困っている世界中で苦しんでる子どもたちに恩返しをしたかった。十分の幸せを、ちょっとだけおすそわけしたかった。」

【きょうの写真】喜多牧夫さん愛用の豆腐笛。全長19.5センチ、110グラムほどの真ちゅう製。昭和34年から10年間の豆腐屋家業で、2本の笛を使いました。一本目も現存しますが、穴が開いて、テープでふさいで使っていましたが、音がよく出なくなり、2本目を買ったのだそうです。

【透玄きょうの一句】「豆腐笛たくあん香る母の背に」
 2003年10月16日(木)  ススキの原にて
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朝から、かんてんぱぱの塚越寛社長の本の編集に集中していました。
昼近く、仕事場の窓を母がノックするので開けると、「これから松川の砂をもらいにいくので、いっしょに行ってくれないか」とのこと。松川は小布施の南を東西に流れる千曲川の支流です。源流にあるかつてのイオウ鉱山の影響で、水は強酸性のため魚などの生物はほとんどいません。川の砂は酸性のため赤茶色をしています。
小布施の人は古来、名産の栗を鬼皮がついたたま冬まで保管するために、この砂のなかに栗を埋めておきました。この砂に埋めておくと、栗から虫がわくことがなく、味も甘いままに保たれます。生活の智恵ですね。

今年、小布施の栗はたいへんな豊作。うちの栗林も、若くてちょうど樹勢がいいのと、せん定や消毒をほどこしてあるため、たくさん収穫できました。栗は大半を栗菓子屋さんに引きとっていただき、残りを人にあげたり、自家用に渋皮煮や練り状にして保管します。それでも残った栗は、鬼皮のまま松川の砂のなかに保管します。こうしておけば、お正月に鬼皮のままの栗を出してきて、料理に使えるわけです。

松川の河原へ軽トラで行くと、堤防や河川敷は一面、ススキ(薄・芒)が花穂をつけていました。秋を味わったひとときでした。

午後は、「森の聞き書き甲子園」の取材準備と塚越社長の本の編集。

午後4時から一時間、町役場に唐沢彦三町長を訪ね、二人で語りあう時間をいただきました。四期目、68歳。県町村会長、全国町村会常任理事として、全県や東京などへの出張が絶えず、来週は北欧への行政視察。「きょうは移動の車のなかでお昼のパンをかじっていたよ」と元気に語る唐沢町長。小布施のため、全国の地方都市のために、もっともっとご活躍いただきたいだけに、ご健康にはじゅうぶんにお気をつけいただきたいと願います。
「田中県知事に直言、反論、論破もできる希少な人」、「このリーダーにしていまの小布施あり」、あらためて実感しました。

【きょうの写真】松川のススキの原にて(母撮影)

【透玄きょうの一句】「芒原ひかりあつめて放ちけり」
 2003年10月17日(金)  桜を植えた異人さん
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文屋文庫第三巻を編集しています。
さわやか福祉財団理事長で元検事の堀田力さんが昨年秋、新生病院の80周年記念講演で話された内容を本にします。
ようやく原稿がまとまり、堀田先生にお送りしました。修正を加えていただき、より充実した原稿にしていただけることとおもいます。
第三巻の巻末に、「ひと、まち、くにの自立と新生病院誕生の物語」と題して一文を書きました。
そのなかに、新生病院の前身・新生療養所の、80年前の誕生物語について書いた、拙著『小布施物語』(あすか書房)に収められた一文を、掲載します。出版に先立って、ここに掲載させていただきます。

(タイトル)
 桜を植えた異人さん

(本文。●●内はルビです)
新生病院礼拝堂に歩み寄ると、一人のカナダ人医師が出迎えてくれる。R.K.スタート氏。一九三二(昭和七)年秋、肺結核を治療するサナトリウムとして開設された新生療養所の初代所長。故国を離れ、通算一三年間、小布施で医療活動にあたった。レリーフに描かれた彼の横顔は、桜の枝がつくる柔らかな陽射しのもと、今もこの地で静かな息をしている。
 当時の日本で肺結核は、死因のトップであり、不治の病として恐れられていた。スタート氏が属していたキリスト教カナダ聖公会は、この窮状を救うため、カナダで浄財を募るかたわら、サナトリウムの建設地を探していた。清浄な空気と日当たりの良さ、静かな環境を求め歩くこと全国三〇数か所。結核の伝染を嫌う地元から、ことごとく抵抗にあっていた。雨が少なくて乾燥した空気に恵まれた小布施は、好適地。が、やはり住民から反対の声があがった。
 激論は半年余りに及んだ。なぜ小布施が、サナトリウムを受け入れたのか。背景に青年たちがいた。彼らは聖書研究会をつくり、キリストの精神を学んでいた。大人たちのもみあいの影で、結核撲滅の拠点づくりに燃える若い人々の熱意が、小布施にはあった。福音●ふくいん●にすがるように、全国から胸を病む患者が集まり、最高の医療設備と温かいスタッフに迎えられた。
 病棟のまわりに、スタート氏は桜の木を植えた。日本人の”こころの花”として外国にも聞こえた桜を選んだのは、彼一流の配慮ではなかったか。春、カナダ聖公会から贈られた鉄製のベッドに身をゆだね、爛漫●らんまん●の桜を見ながら全快を夢見る患者たちの姿があった。
 しかしこのころすでに、広島・長崎への原爆投下まで一五年にわたる戦争の渦中に、日本はあった。桜花のように”散り際●ぎわ●を潔く”と若者は戦地に駆りたてられ、鉄製のベッドは軍備のために供出させられた。スタート氏は追われるように、帰国していった。
 戦後、彼は特効薬をもって療養所に戻り、五年間、所長を務めた。一九七七(昭和五十二)年春。命の恩人を小布施に迎えたいという人々の求めに応じて夫人と来日したスタート氏は、東京で倒れたまま、神に召された。大きく成長した桜の枝から花びらが散り初●そ●め、土に還●かえ●る季節であった。礼拝堂で追悼の集いが開かれた。氏が毎朝の礼拝に弾いていたオルガンの音に、蔦の幼い葉が揺れた。
 地域に根ざした総合病院への道を歩む新生病院。つぎの春にも、桜を愛●め●でる人々の姿が見られることだろう。

【きょうの写真】スタート博士のレリーフ(左)と新生礼拝堂
 2003年10月18日(土)  遠藤守信先生の講演会
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須坂高校の80周年記念式典が須坂市のメセナホールで開かれました。記念講演は、信州大学工学部教授の遠藤守信先生。「クリエイティブ・スピピリッツ」(創造精神)をテーマに、約1200名の生徒や市民を前に1時間半、語られました。
2か月ほど前から、主催者の同校同窓会と遠藤先生のご了解をいただいて、「文屋文庫」にこの講演録を収録する準備を進めてきました。第四巻もしくは第五巻として、おそくも来年年明けには発刊の予定です。

遠藤先生とは今日が初対面。ホール前でご挨拶したあと、楽屋の控え室に上がらせていただき、出版について正式にご承諾をいただきました。おもっていた以上に庶民的でおおらかな人物。これまで、遠藤先生の講演録などを一般向けに編集した本はないそうです。はじめての一般向けの出版物。光栄です。

遠藤先生は講演のなかで、ご専門の超微細技術「ナノテク」の可能性や将来像を語られ、科学技術の研究開発の役割と魅力を熱心にわかりやすく解説されました。高校生に対しては、「富士山は裾野が広いから高く美しい山になる。高校生の段階では、文系・理系をあまり意識しないで、苦手な科目こそ一生懸命に学んでほしい。」「物理が専門だが、化学の知識は必要。高校時代に学んだ化学の基礎知識が、いまも高度な研究に生きている。」「文科系の人も数学や物理学を知っていることで、新鮮な発想を手にすることができる。」と語られました。

20日には、須坂高校の在校生との「熱烈トーク」のために、再度来校されるのだそうです。「文屋文庫」をお楽しみに!

講演のあと、須坂迎賓館にて懇親会。
須坂市仙仁温泉岩の湯の社長・金井辰巳さんとアリコジャパンの村田正道さんと話しました。なんと3名とも、須坂高・明治大法学部であり、しかも司法試験を目指して研究室に入っていたことまで共通でした。とくに金井さんは、正木ひろし氏にあこがれて、刑事事件の弁護士を志望されていたとのこと。これもわたくしとおなじでした。
不思議なご縁です。
金井さんとの出版と通じてのおつきあいも、いずれ始まるような気がしています。

【きょうの写真】講演する遠藤先生(左はSBCの小林由季アナウンサー)




 2003年10月19日(日)  編集と田んぼ この振幅が好き
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朝から、塚越社長の経営理念書の執筆と、「森の聞き書き甲子園」の準備、喜多牧夫さんの本の編集をしていました。と書きつらねますと、すごい人たちの仕事や人生にかかわらせていただいている自分に気がつきます。一人で生きているんじゃない、みなさんのおかげさまなんだなーと、実感してしまいます。

午後3時、「よしっ」と机に向かう仕事を切りあげて、野良着に着がえました。軽トラックに長いロープとゴムの手袋を乗せて、小布施町の北の郊外・延徳田んぼにあるわが家の水田へ。先週子どもたちと行って束ねたわらの残りが、15アールの4割くらい残っています。きょうはそのわらを束ねて、畑に運ぶ作業。「一時間で終わるさ」とおもっていたのですが、やっぱり甘かったー。
2時間、3時間。夕暮れからやがて星明りの暗闇に。それでも終わらないのですが、今日やってしまわないとまたいつやれるのか…と言い聞かせて、7時半まで働きました。
やっとこさ、すべての作業を終了!今年の田んぼの仕事は、これですべて終わりです。

帰宅したら、母と子供たちが、超心配して待っていてくれました。携帯があったのだから電話すればよかったです。薪のお風呂に入って、ビールで乾杯。年代ものの梅酒をあおって、眠りにつきました。
静と動、振幅の大きな一日、好きな過ごし方です。

松岡正剛先生が、「不耕の民」ということばを教えてくれたことがあります。田畑を耕さないで暮らす人。専業ではないのですが、これからも、「耕す民」の一面を、自分のなかにたいせつにしていきたいなとおもっています。

【きょうの写真】喜多牧夫さんの句碑。「登り来てしばし身にある山の声」。田んぼの東にそびえる雁田山のふもと、岩松院の山中に建っています。
 2003年10月20日(月)  インドからいらっしゃーい♪
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朝9時、岩松院前の町民ギャラリーにて開催中の「オープンガーデン写真展」の会場のお掃除を、関係者の一人として30分くらいかけて行いました。それから編集のお仕事。

午後2時。インドの先生3名とご案内役の長野国際親善クラブ(NIFC)の役員さん3名、計6名のおねえさま、おばさまたちが、わが家へ来られました。あいにく母も妻も留守でしたが、あらかじめ知らされていたので、今年の栗で作った渋皮煮や栗のペースト、りんご、お漬物などをそろえて、わたくし一人でお迎えしました。

インドの先生方は、NIFCが進める一校一国運動で、長野市内の二つの小学校との交流のために訪れています。
栗の手作りお菓子の味(栗はインドではほとんど見ない、だから食べるのもはじめて)、わが家の設計、薪ストーブ、そして日本庭園をこころから楽しんでくださいました。とくに関心を示されたのが、座敷の床の間にある家系図の掛け軸でした。子供まで入れて8代(木下姓では6代)分の系図が整理されていることに、驚かれたようです。

仏壇の前に座ったり、芝生に腰をおろしたり、欧米のお客様とはまったく違う関心の示され方に、お国柄を感じました。

4時から須坂高校にて、遠藤守信先生と高校生との熱烈トークを取材。この内容も、「文屋文庫」に収録されます。お楽しみに!遠藤先生、秘書の青木智恵さん、ご理解・ご協力、感謝いたします。

【きょうの写真】インドの先生方と。下は庭の芝生にお座りしてにっこり。
 2003年10月21日(火)  遠藤守信教授からの便り
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終日、仕事場にて、塚越社長、森の聞き書き甲子園の関係の編集準備をしていました。机に向かいながら、昨日の須坂高校における遠藤守信教授の姿やことばをおもいうかべていました。

「最先端の学問を研究する日々は、失敗の連続。努力しても失敗をする。それでも努力して続ける。成功するまで続ける。人生の夢はでかいほうがいい。」

「人生の夢は自分だけのためではない。地域のため、世のなかのためという気持ちをもって取りくんでいきたい。」

「長嶋茂雄さんは『ネバー・ギブアップ』と言った。天才だから一回、ネバーといえばよかった。阪神の星の監督は、ネバーを3回言った。阪神も一流選手のあつまり。では私たち普通の人はどうしたらいいのか。私はこう自分に言いきかせ、仲間の研究者とも語りあっている。『ネバー・ネバー・ネバー(ちょっと休み)ネバー・アンド・ネバー・ギブアップ』。3回ネバーをつづけて、ふと立ちどまってお休みする、考える。そしてネバー。アンドから一気にネバーで盛りあげる。」

「科学は神秘であり、極めるほどに神の世界に近づく。」

「先端を走ることは孤独なこと。幸運の女神は、準備をして努力している人にしか微笑まない。」

「チェンジとチャンス。英語ではgとcの一文字違い。やってやろーじゃないか、がんばるぞ!変化を喜んで乗りこえよう。」

高校生に語りかける遠藤教授。いつも温かく、熱く、まっすぐなまなざしを向けておられました。須坂のご自宅にはお母様と奥様。奥様は教育者にして巨峰などを栽培する農家でもあるそうです。

遠藤教授からメールをいただきました。
「大勢のみなさんに読んでいただける、夢のある本にしていきましょう。協力はおしみません。」心して、取りくみます。みなさん、お楽しみに!

【きょうの写真】母校の高校生に語りかける遠藤先生(前列右)。
 2003年10月22日(水)  奥志賀高原へ
朝から奥志賀高原へ。「ホテルグランフェニックス奥志賀」の支配人・土屋佳司さんに会うために、半年ぶりに、この宿に上がりました。
土屋さんとの初対面はいまはら8年前。3年ほど前から、年2回の宿泊ガイドのパンフレットを作る仕事をいただいています。その前には、『ベーシックノート志賀高原』の取材のために、いくたびか、この宿の中や外で、インタビューをさせていただきました。

通年型の山岳リゾート、上質な建造物と雰囲気、まじめできさくなスタッフの対応、高みをめざす和・中・伊の料理ともてなしの空間、山の家を体感させる木質感たっぷりの部屋、薪ストーブの炎、標高1,500メートルの山・川・そしてスキー場。その空気。

スポーツ製品のフェニックスを経営する田島社長と今年亡くなられた田島会長(奥志賀に別荘を持ち、95歳までスキーを楽しまれていました)、土屋支配人とスタッフたち。彼らのおもいを慕うたくさんのリピーターのお客様。すべての総合の結晶が、このホテルです。

みなさん、いちど、ぜひ、行ってみてください。
小布施から車でゆっくり90分で着きます。紅葉がきれいなドライブでした。

〒381-0405 長野県下高井郡山ノ内町奥志賀高原
TEL.0269-34-3611 FAX.0269-34-2281
http://www.phenix.co.jp/hotel/index.htm

 2003年10月23日(木)  新潟県高柳町の”自律” 溝口さんの手紙
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みなさん、こんにちは。
静岡の浜松を拠点に活躍する「しずおかグリーンツーリズム研究所」主任研究員の溝口久さんからメールのお便りをいただきました。
溝口さんとは、小布施堂さんのオブセッションで初めて出会い、その後、メール通信を送っていただいております。
たしか静岡県の職員。湯布院の観光事務所の公募制度に応募して、数年間、湯布院のまちづくりの現場に身をおいた人です。彼の人間味のある生き様、躍動的な暮らし、ご家族おもいの日々には、いつも頭を下げています。

===全文を紹介させてください。===

高柳町は9月7日のテレビ「報道特集」で紹介されたばかりだった。
隣の柏崎市に吸収合併される。かつて16,000人いた人口は今や2700人、高齢化率も45%(全国では19%)に達し財政先細りの中で、町を維持していくことには限界がある。心配なのは「過疎との共生」のムラづくり活動を行って20年で培われてきた個性が平準化の中で失われていくことである。

高柳町は「じょんのび」をコンセプトにまちづくりを進めている。「じょんのび」とは、ゆったりのんびりして芯から心地よい、BEST OF「気持ちよい」の意味である。
過疎に対しては交流人口を創出させるために温泉・宿泊・食事・直売・農産加工の場「じょんのび村」を94年に建設し、年間20万人の来客と65人の雇用を生み出している。

日本で唯一の茅葺の環状集落がある荻野島地区は、その生活が息づく見事な農村景観に茅葺の宿泊施設を建て地元で管理運営している。その隣には人気建築家隈研吾氏設計の「陽の楽家(ひかりのらくや)」と名づけられたこじんまりとした集会施設がある。
茅葺の屋根、和紙を張った外壁と障子、床にまで和紙が張られている。和紙は地元の和紙職人小林康生さんの手による。その床が田んぼの上にせり出しており、まさに田んぼに浮かぶ行灯のようだ。開け放たれた部屋からボーっと田んぼをながめていると「じょんのびやねー」と言葉が思わず漏れる。

今回お相手いただいた高柳町の総務課長の春日俊雄さんとは日本上流文化圏会議でご一緒させていただいたのが最初である。観光カリスマにも選ばれた氏は高柳のまちづくりリーダーだ。
今高柳町では合併に備えて地域自治組織の強化が課題だ。柏崎市に吸収合併される形なる。黙って成り行きに任せていては周辺部となる高柳町が 寂れていくことは避けられないだろう。それを防ぐための地域自治の強化だ。まずは地区活動部会がこの先端組織となる。これを実現させるには、地域地区が自主的に動くこと、それには住民総意の活動、信頼ある組織、
適切な会計処理などが必要になる。そのために、合併により廃止された市町村は新潟県から特別交付金として10年間でで受ける5億円を使っていくこうとしている。自ら考え活動し稼ぐことまでできる地域にするために
権限・財源の委譲や事務力のサポートをしていくというのである。事務局として役場職員がはりつくことを想定している。

加えて、支援のための地域活動支援センターと「じょんのび研究センター」がある。研究センターは山梨県早川町にある「日本上流文化圏研究所」といったムラのシンクタンクにあたる組織である。
「個性とは何か」「じょんのびとは何か」問い続けながら、ムラの人・モノを慈しみ、互い立てあい助け合うムラに再構築されていくのだろう。

「亡くなってから1日もたって発見じゃ駄目ですけ、普段から様子を伺うようなことができる仕組みができてるといい。そうすれば、お金かけずに福祉の一部ができる。住民のネットワークの強化を図ってゆきたい。」と春日さんは語った。今も50%を越す高齢化率である、せまる高齢社会への対応を急いでいる。

==溝口さんをご紹介くださった小布施堂さん、
ありがとうございます==

【きょうの写真】上)田んぼを囲んで家々がある環状集落
下)「陽の楽家(ひかりのらくや)」で溝口さん(左)と春日俊雄さん
 2003年10月24日(金)  小出博治さんの講演会
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須坂東高校のPTA講演会で、長野国際親善クラブ(NIFC)の小出博治会長が話をされました。生徒約750名と、保護者と教師の約100名が聴講しました。タイトルは「私の歩んだ道」。
小出さんは昭和3年生まれの75歳。ながの東急の「とんかつのまい泉」(本社東京)の取締役相談役としてビジネスの現場で働く一方、30代後半から長野市を拠点にした草の根の国際交流をつづけています。98年の長野五輪に先立って、一校一国運動(ひとつの学校がひとつの国・地域と交流し、五輪のときの応援やその後の人的な交流を進める事業)を提唱、推進してこられました。
詳細はNIFCのホームページをどうぞ。

わたくしの父は昭和2年生まれで、すでに他界しています。小出さんは、高校生にとっては、おじいちゃんの世代です。

「高校生のころから外国にあこがれ、外交官になりたかったが、家業を継ぐ必要があり、果たせなかった。その夢を、30代にNIFCを創設することによってかなえ、いままで民間外交官として楽しんできました。」

「夢はかなえたいもの。けっしてあきらめないで。どんな分野に進んでも、自分の道で世界レベルをめざしてほしい。」

背筋を伸ばし、お腹の底から声を出し、「歩んだ」道と同時に、「歩んでいる」道、「歩んで生きたい」道、「世界に向けた」道を語られる”小出のおじいちゃん”に、高校生たちはなにを感じたのでしょうか?後半、だらけて私語がうるさくなった高校生に向かって、「静かに聴きなさい!いま、だいじな話をしているんだ。人間のこころの話をしているんですから」と一喝した小出さん。有り難うございます。

終了後、保護者だけが集まって、「東高について良いことを語る会」が開かれました。参加者は役員を含めて10名ほど。

「偏差値というものさしには十分のレベルに達していない生徒が多いけれど、自由に、のびのびと過ごしている生徒が多い。なにか自分の道を極められるような日々を送ってほしい。」

「進学を本気で目指す人とそうでない人の、左右振幅の広いことが、この学校の特色。おおきく二つか三つの進路別のコースを作り、特色を出してほしい。15歳の入試までに伸びられなかった生徒でも、遅れて伸びていける生徒もいる。その芽を摘まないで、伸ばしてやりたい。」

わたくしは、「偏差値」ということばの代わりに「変差値」を伸ばすことがだいじではないかとおもいました。

わたくしが最後に提言したのは、つぎのことです。
「創立85年。校舎は老朽化しています。すべての生徒がめざすべきこととして、”きれいな校舎”へ磨きあげることを考えたらどうでしょうか?偏差値をめざしても、変差値をめざしても、すべての基本は、整理・整頓・清潔・清掃・しつけの、基本の5S。からだを動かす体験が、きっとそれぞれの生徒のなにかに、火をつけるのではないか。」

1)毎日の清掃の時間を朝夕にして、すこし伸ばすこと。
2)掃除のたいせつさを理解していただき、その方法も工夫すること。
3)親も先生も生徒といっしょになって、いっせいに掃除や修理をする日を、年2回、もつこと。

こんなことを、来年度のPTA会長として、考えはじめています。みなさん、いかがでしょうか?

【きょうの写真】講演する小出会長と聴く生徒たち。2名の生徒が、質問をしました。「うん、いい質問だ。そうやって、素朴な質問をする姿勢は、とってもだいじだよ」とほめる小出会長。教育者だなーとおもいました。
 2003年10月25日(土)  秋祭り、です。
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きょうとあしたは飯田の鎮守の森・飯田郷元神社の秋祭りです。
朝6時半、区民75戸が神社と公会堂に集まって、掃除と準備をしました。わたくしの組(全8組のうちの2番組)はお宮さんの庭の草かきがお役目。その間に、幟2本が建てられました。

8時半からはお神楽の組み立て。それから、青壮年の集まりである敬神会(会長・島田政宣さん)の有志が、昨夜から仕込んであるモツ煮を作りました。終えてから昼食にて乾杯。

お昼寝をしてから編集の仕事をしばし。それからまた宵祭りがありました。

神楽囃子がにぎやかに村のなかに響き、お酒も進み、みんな和気あいあい。「和気満堂」という額が掲げられているとおりの雰囲気のなか、「あーいい村に生かしていただいてるなー」と実感しました。観光のお客さんはひとりもいない、村人だけの、地味だけれどこころから楽しめるお祭り。これからもだいじにしていきたいものです。

といいながら、課題がひとつ。
数年前から、横笛を預かっています。お囃子の笛を習うべく、貸していただいているのですが、まったく練習をする気になれないで、ほったらかしの状態です。できればこれから、笛の練習をしたいなとおもっております。…やるならば、和の曲を奏でられるまでに練習をしたいなとおもっております。

【きょうの写真】村の神楽道をねり歩く笛太鼓のお神楽。子供たちが紅白の縄を引いています。
 2003年10月26日(日)  秋祭りです。2
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午前11時、船田悦雄さんがわが仕事場へ。彼は地元の電気屋さん、ふなだデンキの後継者、わたくしよりひとつ学年が下です。電気工事からパソコンの設定まで、電気関係の相談と施工はすべてお任せの人。わが家の大半のものごとは、彼にゆだねています。電気系の家庭医のような存在ですね。
この半年ほどのあいだに、いくつかのウィルスに感染していたことがわかり、船田さんに解消していただいたついでに、ウィルスを自動的に駆除するソフト「インターネットセキュリティ2004」(ノートン社)を導入することになり、インストールしていただきました。
わたくしのパソコン関係の設定や操作の知識は、99%が船田さんに頼っています(ときおり書いていますが、ホームページには、林映寿さんという、つよーーい味方がおられます♪)。有り難うございます、船田さん。

午後は秋祭りの二日目。
敬神会では、村民のみなさんに、お宮の庭にて、牛カルビと焼き鳥、モツ煮をサービスしました。

神事のすべてが終わったのは午後5時。
直会(なおらい)のあと、7時半からは、「悪魔っ払い」です。新築や結婚、当選などをした家にみんなで訪れて獅子舞を奉納し、ごちそうをいただきます。

今回は、一軒のみ。神林栄一さんの新築宅へ。
52歳の神林さんは独身でした。このたびお母さんと暮らす家を新築。それに合わせて、ベッドなどの家具を長野市の家具店から購入しました。納品に訪れた女性・ひろ子さん(一つ下)と知り合い、その数か月後には結婚となりました。新築にご結婚。そして彼女には子供さんもいて、お孫さんもいるのだそうです。ずーっと独身できた神林さんでしたが、ここで一気に子も孫もいるお父さんに♪
「こんな人生の展開って、あるんだろうか…!?」と一同、おお盛りあがりでした。

いつもやさしい笑顔を絶やさず、むだな喧嘩をせず、謙虚で、自営業の造園業をまじめにつづけ、村のお役(いまは分館長)をたんたんと楽しんでいる神林さん。「ご先祖様、氏神様がまもってくださったんですね」と自然におもえてくるできごとでした。神林さん、おめでとうございます。

【きょうの写真】わたくしの仕事場のPCにウィルス対応のソフトをインストールしてくれている船田さん。頼りにしてます!!

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