Monochrome-Monologue
2003年7月
2003年7月1日(火) 編集を学ぶ仲間たち
先週末の6月28〜29日、上京しました。28日午後から夜、松岡正剛さんが校長をされているISIS編集学校の3周年と「千夜千冊」800夜を記念しての縁会が、赤坂の草月会館ホールで催されました。翌29日は朝から、その学校の入門篇「守」の一八天動教室で学んでいる生徒さんとの懇親会「汁講」を開催しました。
今年3月から始まった、ネット上で編集術を学ぶ学校。はじめからまったく顔をあわせずに4か月、ほとんどの人たちが初対面でした。お稽古や懇談の場(勧学会)でかなり人柄や好みや仕事ぶりなどがわかる間柄ですから、お互いに風貌や声などを想像して臨んだ会場。イメージどおりであった人も、そうでなかった人もいらしたようですね。
みんなと二日間を過ごし、あらためて、「いい仲間を授けていただいたな」と感謝の気持ちでいっぱいになりました。
「守」は7月いっぱいで修了です。9人の仲間みんなが、48のお稽古を修了されることを願っています。
この日記を読まれているみなさん。
この学校で学ぶ編集術は、本や映画など狭い意味の編集だけではなく、料理も遊びも旅行もお掃除も、ふだんの暮らしや仕事のすべてが編集の対象である、という考えにもとづいています。いっしょに学びませんか?興味のある方はご連絡くださいね。
2003年7月1日(火) その2 ぢですか、じですか?
山手線西日暮里駅から谷中銀座の商店街への路地にて。
【鳥の目猫の目みみずの目その6】
めめめの五七五「ぢかじかで 迷っています しち屋さん」
西日暮里の電柱に巻きついている質屋さんの看板。その名は「おぢさん」。名前が妙ですし、おじさんと言わずに、おぢさんと言うところが、また妙です。ぢなのか、じなのか?ぢが治ったら、じに直すのか?と考えつつ、シャッター。
【鳥の目猫の目みみずの目その7】
めめめの五七五「コクのある 谷中銀座の 豆乳よ」
アーティスト中村仁さんのお勧めは「朝しか売っていない豆乳を、ぜひ飲んできなはれ」でした。ようやく着いた谷中銀座。その出入り口のアーチには、「ポエムナード 谷中銀座」の看板。ポエムナード、ね。詩情豊かとか、詩があふれているとか、そーいう意味なのでしょうか?下町の詩でしょうか?
200メートルほどの銀座通りの中ほどに、ありました。御豆腐屋さんが。40代くらいのご主人と女性が二人、働いていました。早朝からの仕事を終えてお掃除中のご主人に注文して、ワンカップ170円で豆乳をGET。
味の調整をまったくしていない純な豆乳。豆の匂いが口いっぱいに広がりました。
目標達成!駅へ戻りました。
2003年7月4日(金) その1 なだいなださんの講演を聴いて その1
7月4日、長野市で「婦人之友創刊100年記念愛読者会」が開かれ、作家で精神科医の、なだいなだ先生が「こころも成長しよう」と題して講演されました。
「良き社会は良き家庭から」「互いを愛し合いなさい。私はあなたを友と呼ぶ」といったあいさつに続いて、なだ先生の経歴紹介。なだいなだ、とは、スペイン語で「なにもないと、なにもない」という意味なのだそうです。わたくしにとっては、ラジオの長寿番組「子ども電話相談室」の先生として、親しみを感じるお方です。
以下、こころと記憶に残った要旨をご報告します。最後に、わたくしの、とってもお恥ずかしい胸のうちも書きます。笑ってやってくださいませ。掲示板BBSやメールにて、ご感想などをいただけると、うれしいです。
ではどうぞ。
(なだ先生)明治維新のあと、そして戦後と、日本は欧米諸国からさまざまな社会制度や知識技術を学んできた。まねをしてきた。目に見えることはまねしやすい。しかし目に見えない部分はまねをしにくい。
(感想)日本はなにを学び忘れたのか?そして日本は、みずからのなにを、忘れさったのでしょうか?
(なだ先生)
アメリカとカナダの社会を比較したマイケル・ムーアの報告。
http://www.eiga.com/special/bowlingfor/index.shtmlアメリカは銃による年間の死者が一万件といわれる。身の安全、護身のために武装する。心のなかに他人や社会に対する恐怖心をもっているが、人間に対する信頼感を失っている。
カナダでも、許可があれば銃を所持できる。それなのに、銃死はアメリカより極端に少ない。百分の一。なぜか?
家庭や学校、社会教育のなかで、人を信頼して疑ってかからないから。
(感想)
小布施では、個人庭園の公開=オープンガーデンが4年目を迎えました。その基盤も、他者への信頼感です。小布施の栗が丘小学校も小布施中学校もオープンガーデンです。信頼せずに敷地に塀を巡らし、校門に錠前をかける学校。信頼して開放する学校。どちらも“護身”のため…甘いのかな?大阪のみなさん、アメリカのみなさん。
2003年7月4日(金) その2 なだいなださんの講演を聴いて その2
(なだ先生)
私たちは自由だろうか?義理や人情やしがらみがあって、心のなかまで自由になってはいない。アル中患者を隔離するために病院に勤務していたとき、ほかの病院が玄関に厳重な施錠をしていたのに、うちでは鍵をしていなかった。患者の出入り自由にして、(居酒屋で飲めるくらいの)お金も手渡しておいた。患者を信頼することにした。患者はだれも逃げださなかった。
(感想)
子どもに「勉強しろ」というのは、逆効果といわれますが、そうなんですよね。大人だって、子どもだって、しばられるのではなく、信頼されれば、自分らしく生きていける。
(なだ先生)
アル中の病院を退院しても、少しするとまた入院してくる人がいる。その人が言った。「なかなか酒から離れられない。でも酒が自分によくないのはわかっている。だから先生、一生、この病気を背負って生きていきます」。そのとき、医者として、いま、その病気を治すことにしか興味がなかった自分に気がついた。「一生のものさし」をもつことの大切さを、患者さんに教えていただいた。
(感想)
サマージャンボ3億円獲得!即効性の夢を見がちなわたくしです。
2003年7月4日(金) その3 なだいなださんの講演を聴いて その3
(なだ先生)
心は成長するもの、成長させるべきもの。日本のいままでは「百点満点主義」。これ以外になかった。教育も経営も。考える教育、心を育てる教育というものさしをもちたい。百点満点主義の結果として、企業や官庁のトップが不祥事の時に記者会見でお詫びをする、そのしかたまで画一的になってしまった。失敗を反省して心からお詫びする。あたりまえとも言えることを、エリートたちは学ばないままに、偉くなってしまった。
エリート、「優等生」になるのは、そんなにむずかしいことではない。一つのこと、つまり学校の勉強、試験の成績を上げることに集中すればいいのだから。優等生でない子どもは、勉強以外の社会や自然界への関心が多い。よそ見をしてしまう。自分の好みのほうへ、気がそれてしまう。
四畳半の部屋の真ん中に行くのはたやすい。右も左も、むこうもこちらも見えるのだから。優等生になるのは、これに似ている。しかし人生は大海原にたとえられる。どこを見渡しても海ばかり。壁や出口はないから、四畳半のようにはいかない。羅針盤が必要になる。
(感想)
その羅針盤をもたずに、社会に出ているのがいままでのエリートであり、エリートを夢見ながらも挫折した多くの、できそこないエリートたちだったのですね。日本はそんな人でいっぱいになってしまった。自分も含めて。
(なだ先生)
人生の羅針盤とはなにか。海原の羅針盤は磁石と星の位置、その動きが頼り。最初に、自分で自分の人生を決める志を立てること。その志を高く掲げていれば、迷っても志を見失わずに、歩いていける。志は星座である。志を高くもって生きることを、自我の確立といってもいい。30歳くらいまでに、人生の羅針盤を使う力を、家庭、学校、社会で身につけたい。
エリートたちは、羅針盤をもたない人が多い。志に向かってみずから信じる道を歩もうとせずに、失敗をしない競争をする。社長や省庁の次官のように、組織のトップに立つのは、最後まで失敗しなかった人。そしてその地位に立っただけで尊敬される。なにをしてきた人か、これからどんな仕事をして世のなかをよくするのかは、問われない。
(感想)
挫折をして、しぶとく這いあがった経験のない人に、日本の建てなおしなんぞ、できませんよね。
2003年7月4日(金) その4 なだいなださんの講演を聴いて その4
(なだ先生)
エリートのいちばん大切な言葉はなにか?「大過なくすごすこと」。失敗をしないことだけを念頭に、一流の学校に入り、一流といわれる道を定年まで歩む。再就職(天下り)先まで周到に用意する。
いちばん大切なのは、その人に大過があったかどうかではない。日本は沈みかけている。その日本をどうするのか、に取りくんでほしい。
大過、過ち、自分の責任になりそうな行動をしなければ、当然失敗はしない。そういうエリートたちを自分たちの支配者として選んできた、私たち国民にも責任がある。
(感想)
だから、改革を目指す市町村長も県知事も、鉄のような既存の組織の壁に反発されるのですね。
(なだ先生)
子どもに人生の目標をもたせたい。大きな目標から、今日一日の小さな目標まで、どんなことでも、達成できたら、評価してあげたい。ほかの子と比べるのではなく、その子の達成前といまを比べる絶対評価を。
「やっぱりだめか」と、やる気をつぶすような言葉を言ってはいけない。「たったの1か月しか続かないの。彼は3か月続けたのに」など、ほかと比べるものさしを捨てること。だらしないとか、なさけない、とか言わずに、「1か月もできたのか。いままでよりずっと続いたね」と励ましてあげる。
ものさしは自分、問題は自分自身。その子にとって、その人にとって、いままでよりもよくなっていれば、「立派なもんじゃないか」とほめてあげたい。
(感想)
そうだ、そうだとこころのなかで叫ぶ、そうはしてこなかったわたくしです。
(なだ先生)
「立派なもんじゃないか」とほめられると、自信がつく。人は自信がつくと謙虚になる。「いやー、まだまでです。そんなにほめないでくださいよー」と。少しずつ、長く、高くなって、うまくいくコツをつかんでいく。自然にうまく続けられるようになる。励まされながら、謙虚になって、自分で伸びていくようになる。
(感想)
目からうろこです。「人は自信がつくと謙虚になる」。
2003年7月4日(金) その5 なだいなださんの講演を聴いて その5
(なだ先生)
子どもには、失敗をしても這いあがる力をつけさせたい。人生の問題を考える力。問題を見つけて作る力。問題をとらえる力。いい質問をした子どもは、ほめてあげること。「これは私もまいった。かぶとを脱ぐよ。すごくいいことに気がついたね」と。そういう質問をした子には、ボーナス、ご褒美をあげてもいい。
自分のこころを育てる、という目標をもちたい。出世して地位を得ることを誇りに思うのではなく、なにを思い、なにをしたか、そこに注目して誇りを感じる人に育てたい。
私は「老人党」を創始した。
http://www5.ocn.ne.jp/~nadashig/index.html老人のエゴを通すための党ではない。長い年月を生きてきた老人として、自分たちが社会に対してなにができるのかを考え、行動する、連帯する党である。老人はなんでも言える。年金にクビはないから(笑)。世のなかの、間違っていることを間違っていると発言する勇気をもちたい。「老人の成長」が必要だ。
昔読んだ「ピーターパン」をふたたび読んでみた。「死ぬって、意外とすばらしい冒険なんじゃないか?」という一節が目にとまった。若いころは気にならなかったこの文が、74歳のいま、光って見える。成長するとは、おもしろいこと、新しい冒険をすること。若い人たちも、失敗を恐れることなく、冒険をしてほしい。
(感想)
子どもたちに、失敗させないための教育を、知らず知らずのうちにしてきた自分であったように思います。
2003年7月5日(土) なだ先生の講演のあと、妻と語りあったこと
高2と中3の男の子と小4の女の子。上の二人は、どうも学校の勉強だけに集中しない。成績もそれなりで、中学では平均以下。でもサッカーに熱中しているし、友達も多いし、やさしい。学校ではよく発言しているようだ。
将来像もそれなりに思い描いている。上の子はホテル関係かテレビ関係。大学の学部は社会心理学に関心がある。英数国で受験するそうだ。中3の子は、犬の訓練士か料理人か…公務員。小4の子は作家かファッションデザイナー。みんな体は健康そのもの。
それなのに、学校の成績だけで、ほかの子と比べて、口うるさくがみがみ言ってきた。
……そうか、そういえば……、わたくしは30歳の時、二つ目の会社を辞めて、単身、オーストラリアのシドニーへ渡った。その半年後、妻と上の男の子二人がやってきた。そのとき、上の子は3歳、下は1歳直前。人に記憶が残るのは4歳ころ以降とか、三つ子の魂百まで、という。彼らは人生の出発点で、南国の空気のなかで生きていたんだ。親はワインやビールを飲んで、南太平洋の砂浜に寝転がっていた。
豪州のあとわたくしたちは、日本へ直接帰らずに、フィリピンに降りたった。シドニーで出会った実業家・池内幸吉さんの奥さん、ジュビーさんの実家にいそうろうさせていただくために。
中部の島セブの村に半年間。英語ができない二人の子どもたちは、毎日セブの大人や子どもたちと暮らすなかで、現地の言葉を覚え、現地の言葉で歌を歌って、お駄賃をもらっていた。夕食後、家の外の竹製ベンチには、いつも二十人もの人たちが集い、飲み、歌い、語りあっていたっけ。
二人はあの体験を1〜4歳の時にしたのだ。そして帰国。
親は頭を切りかえて仕事を楽しんできた。いつのまに教育パパ・ママになって、子どもには日本社会のエリート度をはかるものさしを押しつけてきた。子どもたちは、「お父さん、違うでしょ話が」と叫んでいたのではなかったか?心のなかで。
せっかく芽生えていた、たくさんの好奇心や関心の目=芽を、押さえてきた親でありました。懺悔の気持ちです。ごめんなさい。
見守ることにしました。伸びなさい、伸ばしていきなさい、伸びていきなさい。
【きょうの写真】庭の草むしりをしながら、南国の村の語らいを思っています。左のガラス窓が、文屋のお仕事場です。
2003年7月6日(日) ロースハムの試食会
終日、編集の仕事で仕事場におりました。
夕方、庭に出て、芝のなかの雑草を抜く仕事に専念。
夕食後、小布施駅の六斎舎にて、ロースハムの試食会。中野市でえ信濃ハムを営む小林一三さん夫妻が作ったハムをいただきました。須坂市の経営者Kさん、Mさん、Iさんらも集まり、「うまい」「塩気と深い味わいがよく融けあっている」「食感はすっしり、食後感は軽い」など、思い思いの感想を述べあいました。
信濃ハムでは、戦後しばらくの間まで、ロースハムを作っていましたが、この30数年間は、まったく手がけてこなかったそうです。それがあるレストラン経営者の強い要望で、ふたたび生産に踏みきりました。わたくしと同年代の一三さんにとっては、初めての体験。思索を重ねている段階です。
試食の感想のあとは、おきまりの宴会に。生ビールと赤ワインを飲んで、仕事やまちづくり遊びについて、語りあいました。
一三さんは、ISIS編集学校「守」の生徒さんであり、また昨年始まった小布施国際映画祭の主要メンバーでもあります。頼りにしています!
2003年7月22日(火) 熱さと知力とあったかさ〜書かずにはいられない
いやな存在だった。
強引なところ。人の話をさえぎるところ。よくしゃべるところ。そして…、あれ、それくらいかな?
熱い人だ。戦略なのか戦術なのか、とにかく知力がすごい。熱く企てて、ひたすら押す。進める。台風、と形容される。
「足を引っぱる人がいたら、感謝するの。足の筋肉をつけてもらえるから」などとヌカス、ほざく。
なんだ、やっかみだったのか、な。
その人が、20日の「小布施見にマラソン」をなしとげた。
直前まで、とまどう人たちがいた。
給水係や交通整理をいきなりたのまれた人もいた。町や警察、お役所もこまっていた。
でも当日、800名ものランナーが走るのを見て、夢中で声援を送る人がいた。昨年の秋にとれたりんごをしぼったジュースを、自宅前にならべて、ランナーに手渡す農家の親子もいた。その甘い滋味に、みな、顔をほころばせた。
一位のイタリア人が駆けぬけた。最高齢84歳と70代のおじいちゃんコンビが、ビリで走りきった。その彼ら彼女らに、ライブ演奏を贈りつづけるアマチュア音楽家がいた。あの人はそれを「縁走」と名づけた。ちぇ、漢字まで使ってシャレ言ってるよ、アメリカ人なのに。
10代から80代まで、ボランティアも炎天下、ずーっと、立っていた。
小布施の町のうちとそと、みんなの、大勢の力が集まって、たのしい時間と場が創られていた。
で、あの人はどこにいたのかって?
ゴールインに近い場所に4時間以上、一人で立って、すべての人たちに「あと一週」「おめでとう」と大きな声をかけていた。握手していた。炎天をさえぎるものは、この日のためにデザインされたオレンジの帽子だけ。わたくしは、木陰にいた。
あったかな人、でもあった。
完璧な人はいない。欠点だらけが人間だ。
さまざまな声や目がそそがれている。高い評価もふくめて、世間様の判断なんぞ、あてにはならぬ。大いなる力が、これから先、どんな判断をなさるのか。だれもしらない。
あったかい。逃げない。熱い。知力。どこれもこれも、わたくしはかなわない。これだけは、間違いのない事実、と思う。
声をかけていただいて、ありがとうございました。貴方と貴方のBOSSと事務局のみなさん。ランナーとボランティアのみなさん。こころから、感謝いたします。
2003年7月24日(木) ふと、うかんだことば
訪れるのに覚悟のいるまち。
案じることはない。こどもは親のこころよりよくはならないのだから。
2003年7月25日(金) 国際ボランティア ワークキャンプinおぶせ
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7月13日から26日まで2週間、5か国8名の若者が小布施に滞在し、ボランティア活動をしています。24日夜は、小布施町役場でさよなら懇親パーティーが開かれました。
「国際ボランティア・ワークキャンプ」という名称。5年ほど前からおなじ時期に小布施で行われています。運営は住民のグループ「小布施国際交流クラブ」(OIFC。牧野富士男さん会長)と小布施町。わたくしはOIFC会員として参加しました。
会場は役場内の調理実習室。デンマークからやってきたニールセンさんとマリーさんが、ミートボールとマッシュルーム・ポテトをみんなに手ほどきして作り、小布施の住民は手巻き寿司や海苔巻き、お稲荷さんを作りました。
ホスト家庭やその友人の小学生から70歳までの住民もあつまり、老若男女+洋の東西、35名の懇親会となりました。
わたくしがこんかいとくに話したのは、デンマークのこのカップル。ロボットの機械工学を学ぶニールセンさんは、アンデルセンが暮らしていたまちオーデンセに暮らしています。「デンマークと日本は、簡素な暮らしやデザインをとうとぶ点で、ほんらい共通しています。でも二つの国にはアメリカ的な生活文化がまびこってしまった。幸福になるには、ほんらいの姿をすこしでもとりもどすことではないでしょうか」と語ってくれました(英語だからじゅうぶんにただしくは聞きとれなかったとおもいますが)。
こう語るとき、デンマークと日本の大きな違いを忘れてはいけません。二つとも「国」とはいえ、かの国の人口は500万。日本はその24倍の1億2千万。220万人が暮らす信州の倍ほどの人口が「国」として、世界のなかで特色のある魅力的な存在感を育てています。
3年前に一週間ほど、長野国際親善クラブの環境視察で滞在してから、この国とのご縁がすこしずつ深くなっています。8月には、そのときにホームステイでお世話になったメアリーさんのお孫さんが、いっしょに旅をした小島美穂子さん(長野市)をたよってやってきます。環境、福祉、デザイン、酪農といった分野で、世界を先導する”偉大なる小国”とのおつきあいを、これからもつづけていきたいとおもいます。
【きょうの写真】上)お手製の料理をかこんで乾杯。中央手前の男性が牧野会長さん。
下)ニールセンさん、マリーさん、酒井美智子さんと。わたくし、ひさしぶりのエプロン姿です。
【透玄きょうの一句】「あをむけに あをき陽いだき 蝉逝けり」
2003年7月28日(月) 野尻湖へ自転車でいってきました
みなさん、こんにちは。
きょうは野尻湖まで自転車で往復してきました。
野尻湖は小布施町の北西、新潟県境の信濃町にある湖です。一年ほど前に自転車を買いもとめてから、ずっと行きたいとおもっていた場所でした。
友人の鶴田将仁さんと朝6時に待ちあわせ、千曲川堤防から上今井橋を渡り、豊田村へ。この村は唱歌「ふるさと」の作詞家高野辰之先生の育った土地です。上り坂を1時間半かけて峠まで登りきり、あとは緩やかな下り坂。野尻湖には8時半に着きました。
約30キロの道のりを2時間半かけて走った計算です。
30分ほど休憩してから野尻湖を一周し、それから山と田園の復路を小布施へ戻りました。
時刻はちょうどお昼どき。おぶせ温泉へ直行して温泉へ。露天風呂で鶴田さんとゆったりと語りあい、2階の大衆食堂にてビールで乾杯!西の方角には、野尻湖のちかくにある黒姫山と妙高山が、雲のなかに見えかくれしていました。「夏のうちに妙高山に登ろうか」、杯をかたむけながら、計画を話しあいました。
自転車、こんどは志賀高原に挑戦です。
【きょうの写真】上)峠を登りきりました。豊田村と三水村の境。ちかくに、自家産のそば粉をつかったそばで人気のお店があります。
下)野尻湖一周をおえて、鶴田さん(左)と愛車
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